父島戦争概要
父 島 戦 争 概 要
戦跡の特徴
未整備、主は洞窟陣地、火砲などが残る
父 島 の 経 緯
昭和19年まで
1914(T3) 海軍が清瀬高台に望楼(電信施設)設置
1917(T6) 海軍が二見海軍貯炭場設置
1920(T10) 陸軍築城部父島支部設置
1923(T12) 陸軍父島要塞司令部を設置
1937(S12)・4 洲崎に海軍飛行場が完成
大戦以前の要塞配備
陸軍:大村第一砲台 大村第二砲台 巽谷砲台 清瀬弾薬庫など
海軍:清瀬重油槽 海軍通信隊 洲崎飛行場 など
戦局
戦局:1941(S16)-12-8
ハワイ・真珠湾攻撃より大東亜戦争始まる
その後、半年ほどで西太平洋方面や東南アジアを占領
戦局:1942(S17)-6
ミッドウェイ海戦で日本軍敗退、
以後、米軍攻勢はじまリ、日本軍徐々に後退へ
1943(S17)
要塞神社のお祭り開かれる
1944(s19)
までは一般島民が暮らしつつ、陸・海軍が配備
軍の拠点や要塞地帯は一般人立入禁止
昭和19年
1944(S19)・5 海軍通信隊送信所 夜明山へ
1944(S19)・5
マリアナ付近の形勢悪化に伴い
第三十一軍の小笠原地区集団を新たに第百九師団に編成
戦局:1944・6
米軍のマリアナ諸島占領 海軍連合艦隊壊滅
以後、サイパン・テニアンなどから本土へ空爆に
1944・6ごろより
米軍の空襲や艦砲射撃による攻撃はじまる
栗林中将、硫黄島に着任
1944・7
小笠原地区集団を小笠原兵団とし、
兵団長の指揮下に入り、大本営直属に
1944・7
強制疎開完了(6886名・軍属として825名残留)
1944・7月末
浜江丸が境浦にたどり着き座礁
戦局:
1944秋以降、水際配備から洞窟陣地の縦深後退配備へ
(米軍の上陸阻止から、長期持久陸上戦へ)
対空砲火は85%以上、洞窟陣地へ
昭和20年
1945父島兵力 陸軍9000名以上 海軍約6000名 計 約15000名以上
母島兵力 陸・海約7000名
*小笠原諸島戦没者 4410名(海没を含む)
うち陸上での戦没者は1000名程度
戦局:1945・2
米軍の硫黄島上陸
本土空襲のための中継基地の必要性
1945(S20)・3
硫黄島玉砕 戦没者20129名
以後、敗戦まで輸送も途絶え自給生活
戦局:1945-3-10 B-29の東京大空襲
3月末より沖縄戦
8-6広島原爆 8-9長崎原爆
1945-8-15敗戦
小笠原諸島では地上戦は行われず
敗戦以降
1945-1946
島内清掃 武装解除 弾薬・小型兵器などの廃棄
兵隊の引き上げ
1945秋-1968-6
米軍占領 (欧米系をのぞく一般島民の帰島は不可)
1968-6-26小笠原返還
山中の陣地や大型の兵器は放置のまま、周辺が森林化し、現在に至る
戦後、軍による兵器の破壊や
換金目的の盗掘による兵器の破壊が行われている
以上