栃木県宇都宮市大谷公園「平和観音」「慰霊之塔」(’25/4月訪問)
目次
概要
’25/4月、
栃木県宇都宮市大谷公園「平和観音」「慰霊之塔」訪問。
この日、「石の里 大谷」を訪ねた。
その際、
平和観音を見るため、大谷公園にも足を運んだ。
平和観音は、総務省のサイトにもあり、
追悼施設として位置づけされている。
<公園の案内板>
その公園内で、「慰霊之塔」にも気づいた。
この記事では
「平和観音」「慰霊之塔」について記載する。
平和観音
説明板
平和観音
大谷寺の南側に高くそびえる平和観音は、
身丈26.93メートル(88尺8寸8分)の高さで、
第二次世界大戦による戦没者の霊を弔い、
世界平和を祈念するために、
大谷観音の御前立として彫刻されたものです。
戦後間もない昭和23年9月より、
当時の大谷観光協会と地元の人々の熱心な後援のもとに、
大谷石の採石場であった壁面を利用し、
南側の岩肌に観音像を刻みました。
東京芸術大学教授・飛田朝次郎が彫刻を手がけ、
その指導のもと、
大谷町の石工・上野波造氏らが制作にあたりました。
6年の歳月を費やした結果、
昭和29年12月に完成しました。
昭和31年には、
日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われ、
それ以降大谷の顔としてそびえ立っています。
(改行位置は原文と異なる)
本文の上野氏について
上野浪造氏は群馬出身。
戦時中、大谷の地下工場に動員された。
戦後も大谷に居住して仏像彫刻を決意したといわれている。
戦時中に亡くした2人の弟を含め、
多くの戦争犠牲者に対する供養のために掘られた。
全景
上半身
脇に階段がある
眼下の公園
慰霊之塔
碑文
撰文
我が日本は開国と共に世界の文化を吸収して
近代国家に発展したが
幾多の戦乱に遭い遂に太平洋戦争に突入して
許多の多くの尊い生命が祖国進展の為に捧げられた
明治大正昭和の三代に亘り我が家郷を出て、
故国の悲運に殉じたる者
実に三百九十余名の多きに及んで居る
其の愛国の情を祖国再建の礎石たらんことを確信して
茲に慰霊之塔を建立し霊を慰むると共に
世界永遠の平和を祈念して
人類理想具現の道標とせんとする者である
城山村長 安納 基 謹書
昭和29年10月 建立
(改行位置はは原文とは異なる)
全景
塔近景
標題 慰霊之塔
参考
前の記事へ
次の記事へ