小笠原マルベリー

徳島中央公園内「徳島戦災犠牲者慰霊塔」「父の像」(’25/5月訪問)


 

 

概要

 

’25/5月、

徳島県徳島市徳島城(徳島中央公園)訪問。

 

徳島県徳島市「徳島城」(’25/5月訪問)

 

城内を歩いていると、

徳島戦災犠牲者慰霊塔や父の像などが建立されていた。

 

慰霊塔は城山の二の丸付近に、

父の像は公園北側(公園管理事務所・駐車場付近)に、

それぞれ建立されている。

 

「徳島戦災犠牲者 慰霊塔」は

県内外で戦災にあった人を弔うもの。

総務省|一般戦災死没者の追悼|徳島戦災犠牲者慰霊塔

徳島大空襲 – Wikipedia

 

「父の像」は

国家の礎としての父、平和と繁栄に殉じた父、

祖国を護る悠遠の父という心の象徴である。

(父を象徴としているが、先人の人たちという意味合いだろう)

父の像 – 徳島県 – LocalWiki

 

 

 

 

 

 

現地の様子

 

 

 

徳島戦災犠牲者 慰霊碑

 

 

 

全景

 

近景

 

碑文

 

・・・・・

昭和二十年太平洋戰爭ノ終末ニ近ツクヤ
 
米國空軍大挙シテ日本全都市ヲ爆撃ス
 
徳島市亦コノ災ヲ免ル能ハス
 
同年七月四日未明一瞬ニシテ灰燼ニ帰ス
 
市内ニ在ツテ命ヲ失シモノ一千七百有餘
 
市外縣外並ニ外地ニ在リ前後シテソノ厄ニ遇フ縣人亦二百五十餘
 
惨禍ノ甚タシキ言語ニ絶ス
 
爾来十年猶ソノ靈ヲ弔フコト至ツテ薄シ
 
徳島戰災死没者遺族会之ヲ遺憾トシ相議シテ
 
戰禍十周年ヲトシ慈ニ塔ヲ建テテ慰霊ノ誠ヲ具顕ス
惟フニ死没ノ靈ソノ非命ヲ恨ムヤ論ヲ俟タス
 
然レトモ又己ヲ奉シテ以テ戰争根絶ヲ願フノ念
 
切ナルモノアルヘシ
 
冀クハ遺族会ノ衷情之ニ感應シテソノ靈ヲ慰メ
 
以テ旧字界永遠ノ平和確立ニ資センコトヲ
 
 
昭和三十年七月四日  岡本優撰併書

(改行は原文と異なる)

・・・・

 

 

 

 

父の像

 

 

全景

 

 

近景

 

 

碑文

 

・・・・

 この像は、国家の礎としての父 であり、

平和と繁栄に殉じた父 であり、

祖国を護る悠遠の父という心の象徴であります

 わが日本は建国以来、

この国土と民族の発展を護るために

幾百万か幾千万かはかり知れない殉国の人びとの上に

築かれたものであります

 私たちはこの雄大なそして永遠に生きる殉国の方がたのお姿を再現して、

そのご造徳をしのびこれから先いつまでも和やかな心で

再び戦争や同胞相克の悲惨な事態を起こさないよう切望してやみません

 どうか わが民族と全世界の人びとが

この像と共に戦争について静かに対話してくださるよう

こい願うものであります

 

昭和48年12月2日 財団法人 徳島県遺族会

(改行位置は原文と異なる)

・・・・

 

 

説明文

 

・・・・

父の像

大昔から今日まで幾千万かのわれらの祖先が

生命をかけてこの国を護り育ててくれた

この像はこれらの人びとの遺徳を偲び

永遠の平和と発展を祈るねがいをこめたものだ

 

徳島県遺族会

昭和48年12月建立

(改行位置は原文と異なる)

・・・・・

 

 

 

 

 

参考

 

 

徳島県徳島市「眉山」(’25/5月訪問)

 

 

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    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

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