静岡県静岡市駿府城公園内「やすらぎの塔・とこしえ碑他」(’25/4月訪問)
目次
概要
’25/4月、
静岡市駿府城公園内「やすらぎの塔・追悼碑他」訪問。
これは駿府城跡を見学に行った際、
公園内の「やすらぎの塔・追悼碑他」に気づいたもの。
「やすらぎの塔(動員学徒慰霊碑)」、
「とこしえ(戦争犠牲者追悼碑)」の碑、
「第三十四聯隊(連隊)址」の碑、「軍神 橘中佐」歌碑など。
「やすらぎの塔」は動員学徒慰霊碑。
1958年建立。
台座の上の像は解体されていて何もない。
「とこしえ」の碑は戦争犠牲者追悼碑。
1995年建立。
「第三十四聯隊(連隊)址」の碑、「軍神 橘中佐」歌碑は
1967年建立。
かつて城内に陸軍歩兵第34連隊が置かれていた。
34連隊の橘中佐は
日露戦争で戦死、そして軍神となった。
現地の様子
「やすらぎの塔(動員学徒慰霊碑)」
「やすらぎの塔」全景
動員学徒慰霊碑
1958年建立
台座の上の像は解体されていて何もない
標題
動員学徒
やすらぎの塔
内閣総理大臣岸信介書
説明
やすらぎの塔
駿府城頭はるかに富士をのぞみ
民族の悲劇に散った動員学徒の像が
年経た今人々の心に刻まれた美姿そのままに
ひたすら霊よやすらかなれと祈りをこめて静かに建立された
純潔にして凛々しかった君たち若人らは
国家と運命を共にして一片の名誉すらなく献身の一字に消えた
しかしながら人々はすべての悲善愛憎をのりこえて、
この前にぬかずきふたたびくりかえすまじきことを誓って
新たなる市民の使命を見出さんとしている
君たち動員学徒の霊が限りなく希っているであろう
自由と平和と真理のある国にすべく
人々は君たちの像を永遠に仰ぎ見る
昭和33年11月23日
静岡県知事 斎藤壽夫
(改行位置は原文とは異なる)
戦没者氏名
「とこしえ(戦争犠牲者追悼碑)」の碑
全景
1995年建立
像
標題は「とこしえ」
説明板
戦争犠牲者追悼碑
静岡市は太平洋戦争により
昭和19年(1944)12月7日から20年8月1日までの間に
16回にわたり米軍機による空襲を受けました
とりわけ昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけて
B29爆撃機123機による大空襲を受け
市内のほとんどが焦土と化しました
これらの空襲により
静岡市民2000余人の尊い人命と貴重な財産が失われました
またひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ
幾多の戦場に散った静岡市出身の軍人軍属塔等7900余人の
尊い犠牲も生じました
私たち静岡市民は
このような悲惨な戦争を拒否し日本憲法の示す精神を体して
昭和35年(1960)3月25日静岡市平和都市宣言をして
永達の平和を誓いました
いま終戦50周年(1995)を迎えるに当たり
市民の血のにじむような努力により復興した県都静岡の
市民憩いの地に戦争のむなしさを永く記憶にとどめ
多くの犠牲者を追悼するとともに
世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立しました
平成7年8月15日
静岡市長 小島善吉
(改行位置は原文と異なる)
静岡市戦災被爆地図
「第三十四聯隊(連隊)址」の碑、「軍神 橘中佐」歌碑
全景
正面が「第三十四聯隊(連隊)址」の碑、
左が「軍神 橘中佐」歌碑
「第三十四聯隊(連隊)址」の碑
裏面
建碑のことば
この城域は明治三十年歩兵第三十四連隊を置かれて以来、
岳南士風発祥の地となり国難に際しては
軍旗の下幾万将兵を遠く国防の第一線に送って来た
この間軍神橘中佐を始め、
幾多将士の健闘により感状を授与されること三十余回、
武勲は燦然として青史に輝いている
さりながら特設された多数部隊をも含めて
大陸の広野に絶海の孤島に玉砕散華した勇士はその数を知らず、
忠霊の汗と魂とは城内一握の土一塊の土にも
今なお深く浸み透っている
これら先烈の偉勲を顕彰し、
その精神を後世に遺さんがため我ら同志八千有余名、
相図って茲にこの碑を建立した所以である
昭和四十二年十一月三日
静岡連隊関係者有志建立
つわものがとどめしいさを
橘のかをりとともに永久に匂はむ
(改行位置は原文と異なる)
歌碑
軍神 橘中佐
遼陽城頭 夜は闌けて
有明月の 影すごく
霧立ちこむる 高梁の
中なる塹壕 声絶えて
目醒め勝ちなる 敵兵の
胆驚かす 秋の風
敵の陣地の 中堅ぞ
まず首山堡を 乗っ取れと
三十日の 夜深く
前進命令 忽ちに
下る 三十四聯隊
橘大隊 一線に
歌碑説明
歌碑に寄せて
この軍歌は陸軍教授鍵谷徳三郎氏が作詞、
安田俊高氏の作曲にかかり、前後三十二節より成っている
明治大正昭和三代に亘って全国津々浦々に愛唱せられ、
これにより岳南勇士の名声高揚に果たした役割は大きい
今、連隊址碑を建立するにあたり、
その一部を抄出して石に刻み後世に遺す
昭和四十二年十一月三日
静岡連隊址碑建設期成会建立
参考