超離島の悲哀・・脳梗塞による急患搬送(実体験談)
目次
概要
’25/1/11朝、
母が脳梗塞で倒れた。
救急車で村の診療所に運ばれた後、
さらに、救急搬送で、都立広尾病院に運ばれた。
倒れてから、広尾病院での処置に至るまでで、
12時間ほどかかっていた。
これが、
超離島・小笠原で急病人が出たときの実態である。
母は、数日、ER病室にいたが、
危機を脱してからは普通病棟に移った。
1か月近く、広尾病院で過ごした。
その後は広尾病院の紹介で、
2/5、桜十字白金リハビリテーション病院へ転院した。
ここの病院のリミットは最長6か月ほどであった。
3か月たって、今後のことを検討した結果、
島の自宅に帰るのは困難という結論となった。
そこで、次の施設ということで、
特養老人ホームを探し、入所が決まった。
(’25/7月中旬時点)
7/28に次の施設に入所する。
島民の皆さんの今後の参考になるかもしれないので、
備忘録としても記録し公開することにした。
(ただし、記録を取ったものが少ないので、
記憶違いも多少はあるかと思う)
なおこの記事では
特養の入所前の状況までとなる。
2/11(搬送されるまで)
倒れたとき
朝起きて、
7時ごろ、母の部屋を見ると、部屋で横になっていた。
ちょっと違和感があったがそのままにしていた。
30分後、再度見たら、やはり横になっている。
声をかけたら、反応があり、
体が動かないという。
その後、
吐き気をもよおし、はいてしまった。
それで、
楽な姿勢に変えて、あわてて救急車を呼んだ。
少しして、
救急車がやってきて、診療所に運んでいただいた。
時間は8時ごろであろうか?
診療所
診療所に運ばれてからは、
こちらは処置を待つのみであった。
応急処置のほか、
CTスキャンなどで検査も行われた。
しばらくして、
医師から、説明を受け、脳梗塞だといわれた。
脳の中央部に白いものがあるといわれた。
脳梗塞を起こした血栓部分を
さらさらにする薬の処置がなされた。
しかし、
これは効果がなかったといわれた。
内地への急患搬送を要請するといわれた。
付き添いで1人同行するように言われ、
僕は自宅に戻り準備した。
2/11急患搬送
急患搬送は海上自衛隊ヘリで硫黄島、
硫黄島から海上自衛隊飛行機で厚木、
さらに救急車で広尾病院となった。
移動中はもちろん医療関係者もつきそう。
ヘリが飛んでくる時間に合わせて、
救急車で僕と母は父島基地分遣隊に。
そこでヘリに乗った。
時間は13時ごろだった。
すでに6時間以上経っている。
母はたんかのまま寝かされて、
僕は座席に座った。
母には医療関係者がつききりで、
ずっと点滴がなされていた。
1時間ほどで硫黄島につき、
次は飛行機に乗り換える。
その日の飛行機は
海上自衛隊の哨戒機P1であった。
<硫黄島基地・・哨戒機の中から>
硫黄島を飛び立つ頃で、
すでに時間は15時を過ぎていた。
P1哨戒機はジェット機なので、
旅客機と変わらない乗り心地であった。
付き添いの僕は窓から外の景色も眺めていた。
時間的に夕暮れや夜景がきれいに見えた。
<夕暮れ>
<夜景>
哨戒機で厚木に着いたのは18:30頃。
滑走路付近に救急車が待機していて、
そのまま救急車にうつった。
高速を走って、1時間ほどで広尾病院着。
おおむね19:30頃であった。
この時点で、
母が倒れてから12時間も経っていた。
広尾では、すぐ本格的な処置が行われた。
MRI の検査も行われたようだ。
検査や処置が終わり
母はER病棟に入った。
僕が東京の宿に入ったのは
23時ごろとなった。
2/11-2/4都立広尾病院
<都立広尾病院>
広尾病院では、
1か月ほど入院していた。
医師からは病状の説明があった。
やはり脳幹梗塞(左寄り)で、
村診療所の見立てとほぼ同じであった。
血栓を取る処置は効果がなかったといわれた。
右半身にまひがあり、
これは全治は難しいといわれた。
母は、数日間、ER病棟にいたが、
その後は普通病棟となった。
その時点で、
命の危機は脱したのだろうとこちらも判断した。
僕もしばらく滞在して、
毎日、様子を見に行った。
点滴はしばらく続いていた。
母の様子を見ていると、
少しずつだが回復してきているのが分かった。
母は入れ歯をしていて、倒れたときにはずされて、
しばらくはずしたままとなった。
その後、つけようとしたら、もう合わなくなっていた。
そのため、
食事は固いものが噛めない状況が続いた。
広尾は救急病院なので、あまり長くはいられないし、
リハビリもそれほどやれるわけではない。
入院もしばらくして、
次のリハビリ病院の紹介を受けた。
紹介を受けた中で、
広尾から一番近い病院に見学に行き、
印象がよかったので、すぐそこに決めた。
それが
桜十字白金リハビリテーション病院であった。
ここで入院中、村に介護認定の申請をしたところ、
「要介護4」の認定を受けた。
2/5~桜十字白金リハビリテーション病院
<桜十字白金リハビリテーション病院>
2/5から
2/5転院の日は僕も妻も行けない状態だったので、
内地住まいの長男と長女にお願いをした。
次の病院への移動は
広尾病院で手配してくれた介護タクシーで。
徒歩15分ぐらいの距離だが、
介護タクシーだと5000円程度はかかった。
僕はその場にいなかったでの、
転院時の様子はわからない。
今度はリハビリ専門病院なので、
1回約1時間で1日に3回リハビリがあるとのことだった。
転院して、
しばらくして、僕も様子を見に行った。
面会は予約制で
1回につき30分まで(ロビーでの面会)
そのころには新たな入れ歯も入り、
ようやく普通の食事がとれるようになっていた。
(倒れてから1か月後ぐらい)
入れ歯が入ってからは、
母の様子もよりよくなってきたように感じた。
この病院に移ってから、
リハビリでの運動や栄養管理で体調もよくなっていた。
月に一度程度は、医師との面談もあり、
母の状況もしっかり把握できた。
少しずつではあるが、
右半身麻痺の回復傾向を感じた。
足の方が少し動くようになりつつ、
手の方はなかなか動かないようだ。
僕は島での生活なので、
普通は年に2回ほどしか内地にはいかない。
しかしこういう状況なので、
2月以降も、月に一度は上京して、様子を見てきた。
(僕は一人っ子なので、他に変わりがいないため)
5月中旬 病院との面談
この時点で、
先のことを考える時期となった。
つまり、島に帰るか(島の施設や自宅)、
内地での施設になるか、その判断の時期であった。
この時点での回復状況は
足の方は介護付きならわずかに歩行ができたが、
手の方は指がまだわずかに動く程度であった。
日常生活でもまだまだ介助が必要なこともいくつもあった。
用足し、入浴、食事などで。
面談の結果、自宅生活はまだ難しい、
島の施設は空きがないということで、
島に帰るのは困難となった。
結論として、
内地の施設を探すこととなった。
施設としては、
特養老人ホームを探すこととなった。
この病院の入院期限は8月初旬までで
タイムリミットまで2か月半ほどしかなかった。
5月中旬以降 特養探し
その後、ネットなどで特養探しをした。
ネットにはいくつか検索サイトがある。
おもには西多摩地区の特養ガイドで探した。
検索当たってはの条件設定では、
関東で駅から徒歩圏内、空きがある、
ユニット型個室タイプの4つを必須にした。
関東で駅から徒歩圏内こちらの面会の都合、
空きがあるというのは現在の病院の期限から、
ユニット型個室は母の部屋で。
その後、いくつか選んで、
アポを取って、見学に出かけた。
相談員の方はみな丁寧に対応してくれた。
また施設も甲乙がつけがたかった。
こちらも初の体験なので、
施設の評価ポイントがよくわからなかった。
最終的な結論としての決め手は、
アポを取った後の対応が一番素早かったところに決めた。
(この判断がいいかはわからないが、
他に決め手がなかった)
決めた施設は
日の出町の「第三サンシャインビラ」となった。
7月初旬に、再度施設に行って、契約を済ませた。
また村役場に行って、必要な書類をそろえたりした。
<第三サンシャインビラ>
7月初旬 母の回復状況
7月初旬、施設との契約のため上京したので、
その際、2回ほど母とを面会した。
リハビリの効果もかなり出ているようで、
補助付きなら少し歩けるぐらいまでとなっていた。
(完全にフリーではまだあぶない状態)
手の方はまだあまり動きはよくないようだが、
握ったり広げたりが少しできるぐらい。
また病院での規則正しい生活のせいか、
体調もよさそうであり、安心した。
これで、
次の施設の入所も大丈夫だろうと思った。
今後のこと
7/28に次の施設に入所する。
ここは老人ホームなので、
極端な話、終の棲家ともいえる。
期限はないので、
そこから先のことはおいおい考えることにする。
なお、今後、村の老人ホームに空きが出たら、
応募するつもりではある。
島の施設に入れればなお好ましい。
以上、7月中旬まで。
まとめ
小笠原では、島で処置ができない急病人・けが人が出たとき、
内地に救急搬送される。
(判断は村の診療所で)
方法としては、
硫黄島までヘリ、硫黄島から内地は飛行機となる。
飛行場からは救急車で病院へと運ばれる。
事例が発生して、内地の医療機関につくまで
12時間ぐらいかかったりする。
搬送中は担架に寝かされ、点滴などをしながら、
医療従事者がそばについてくれる。
その後、しばらくは入院となることが多い。
また後遺症が残る場合、さらに入院が長引く。
島に住んでる人、これから住む人は、
こういうことがすべての人に起こりうるので、
頭に入れておいた方がいいかと思う。
島に住むということは
こういうリスクがあるということ。
若い人も同様で、
若い人は病気はあまりないだろうが、けがは誰でもあり得る。
僕も身内では、初のことで、すべてが初体験であった。
いろいろ戸惑うことも多かった。
これからのこともまだまだ戸惑うだろう。
最後に・・御礼
母が倒れてからかかわっていただいたすべての方に
お礼を申し上げる。
いくら感謝しても、感謝しきれないと感じている。
村診療所、村役場職員、父島基地分遣隊、
硫黄島基地、ヘリや哨戒機運航関係者、
広尾病院、桜十字白金病院などで、
かかわっていただいた皆様。
こういう人たちのおかげで、
母も回復に向かうことができている。
そして我が家族にも感謝。
これから入所する特養老人ホームの皆様には、
これから多くのお世話になるだろう。
参考:老人ホーム検索サイト
【施設数No.1】老人ホーム検索はみんなの介護 – 7/17空室更新
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