小笠原マルベリー

「離念道帰信士」墓


 

 

概要

 

奥村咸臨丸墓地内にある、

「離念道帰信士」墓。

 

「離念道帰信士」というのは、

信士とあるので、戒名であろうか。

(意味は不明)

 

墓には、

俗名、死亡日、建立者名が刻まれている。

 

俗名は兼五郎、浅野兼五郎のことである。

亡くなったのは、

1878年(明治11)7月2日である。

 

なお建立者は浅野権三郎。

浅野兼五郎との関係や詳細は不明。

名字が同じなので、近縁者であろうか?

 

下記は、小笠原諸島歴史日記による。

浅野兼五郎は、船大工として、

1877年(明治10)11月11日来島。

翌1878年(明治11年)7月2日病死とのこと。

(享年、病名は不明・要調査)

 

「小笠原諸島歴史日記 上・中・下巻」(辻友衛)

 

浅野は

来島して1年にも満たずに亡くなっている。

もともとの持病なのか、当地で発病したのだろうか?

 

なお、墓以外には足跡はない。

 

 

 

 

 

墓の様子

 

 

墓の位置は後部左側

 

全景

 

正面

 

中央:「離念道帰信士」

右:明治十一年

左:七月二日

 

左側面 下半分

 

俗名 兼五郎

浅野権三郎

     建之

 

 

 

裏面

 

 

 

 

見るには

 

奥村咸臨丸墓地内にある。

都道夜明道路沿いのはじめなので、

まちからもほど近い。

 

歴史ツアーでは定番コース。

景観ツアーでも訪問することがある。

 

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    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

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