安城市・海軍明治航空基地(’21/5月訪問)
目次
安城市・海軍明治航空基地(’21/5月訪問)
概要
’21/5月、安城市・海軍明治航空基地を訪問しました。
安城市/明治航空基地 (city.anjo.aichi.jp)
meijikokukiti.pdf (city.anjo.aichi.jp)
当時の基地
場所は安城市南部の袖ヶ淵に近い平坦地にあります。
油ヶ淵水辺公園|碧南と安城をまたぐ天然沼湖のある県営都市公園
ここの跡地は飛行場や自衛隊の基地としての利用はなく、
宅地や農地になっています。
そういう中に、当時の名残が少し残っているので、
探すのも手間がかかりました。
僕が見てきたのは慰霊碑、燃弾庫、弾薬庫などです。
燃弾庫とは、
航空機に使用する燃料(ドラム缶入り)や弾薬を、空襲から守るために造られたものです。
現地の様子
明治航空基地之碑
慰霊碑
碑文
碑文
「太平洋戦争たけなわの1943年4月、横須賀海軍施設部の監理の下、
当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約200ヘクタールの農地に、
海軍の軍用飛行場の建設が始められた。
そして、翌年5月下旬から終戦の1945年8月15日にいたるまで、
建設工事と並行して海軍航空隊が航空基地として使用した。
その間、配備航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、
当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に
慣熟させるための錬成訓練を行うとともに、
1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、
主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎撃や、
米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。
また1945年1月13日早朝、この地を襲った三河地震
(東端の被害、住宅全壊77、同半壊121、死者24、重傷5、軽傷361等)の際は、
近隣町村被災者の救出・救援並びに災害の復旧に当たった。
太平洋戦争終結50周年を記念し、改めて世界恒久平和を祈念するとともに、
その歴史的事実を後世に伝えるため、この碑を建てる。」
1996年3月 東端町内会
「明治航空基地配備航空隊名」
1944年5-7月 第三四五海軍航空隊明治派遣隊
同年7-9月 第三四一海軍航空隊明治派遣隊
同年9月-終戦 第二一〇海軍航空隊
1945年6-終戦 東海海軍航空隊
燃弾庫
3箇所でそれぞれ1つずつ確認しました。
説明板
説明板(部分拡大)
燃弾庫は長さ約11m、幅3.5m、内部高2m
燃弾庫1 畑地にあるもの
同 側面
燃弾庫2 老人施設の駐車場にあります(立ち入り可能)
www.higashibata.org/tokuyou.html
同2 内部
燃弾庫3 人家内にあり、入口はふさがれています
弾薬庫
弾薬庫1
改修され利用されているもの(民間の倉庫?)
燃弾庫1のすぐ近く
弾薬庫2 壁の一部のみ残る
2つの弾薬庫は道路を隔ててならびます
その他
油蒸留場跡
燃弾庫1のすぐそば
戦跡参考記事
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