「札幌農学同窓会誌 第25号」
目次
概要
’21/12/15発行、「札幌農学同窓会誌 25号」。
この25号に、僕も寄稿しました。
タイトルは
「南国小笠原に移住して早29年」(P111-122)。
札幌農学同窓会というのは、
北海道大学農学部卒業生の同窓会です。
一般社団法人 札幌農学同窓会 (alumni-sapporo.or.jp)
この寄稿は
後輩にあたる森林科学科のS教授から依頼を受けました。
僕もこの学科(木材化学講座)の卒業です。
森林科学科 – 北海道大学 農学部/大学院農学院/大学院農学研究院
樹木生物学研究室 – 北海道大学 農学部/大学院農学院/大学院農学研究院
初めは別な原稿を事務局に渡したのですが、
以前に寄稿した文章の方がいいというとことで、
それを少し編集して出しました。
同窓会誌
表紙
都ぞ弥生は明治45年寮歌ですが、
北大では校歌以上に愛されています。
都ぞ弥生 北海道帝国大学予科の寮歌を歌う緑咲香澄・さとうささら – YouTube
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寄稿文 目次
本文
これは生原稿ですので、会誌は校正部分があるかと思います。
PDF はこちら 札幌農学同窓会誌
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南国の小笠原に移住して早29年
吉井 信秋
東京からはるばる1000㎞程南にある小笠原・父島在住の吉井信秋です。
昭和60年(1981年)林産学科卒です。
現在は個人事業で、陸域専門ガイド 「マルベリー」 を営んでいます。
僕と妻2人で運営する小さなガイド事業です。
僕が島を訪ねたのは29年ほど前、1992年7月末。30歳になる直前でした。
「島に魅せられたんでしょうね」 なんてよくツアー参加者からは聞かれます。
でも、実はそんなたいそうなものではありません。
大学卒業後に就職した会社は事情により、30歳を目前にして退職しました。
それまであまり貯金はなかったのですが、
夏のボーナスと退職金で、一気に150万円ほど手に入りました。
まずはダイビング旅行に出ようと思い、5泊6日でしか行けなくて、
今まで行ったことがなかった小笠原へ旅立ちました。
しばらくダイビング三昧で遊んでいて、
たまたま、商店から臨時バイトのお誘いがありました。それが運のつき。
ちょっと手伝ったら、また来いとなって、ずるずるとそこで働くことに。
商店での仕事をしばらく続けました。
その後、ダイビングインストラクター資格も取り、
ダイビングサービスでまたしばらく働きました。
そのころから陸の面白さにもひかれて、
2000年には、現在のガイド事業を立ちあげました。
それから21年、このガイド事業で暮らしています。
陸域専門ガイドとして、日中は森・山・戦跡・歴史・景観などをガイドし、
夜もナイトツアーを催行しています。
皆さんは、ガイドツアーに参加したことがありますか?
北海道なら知床がガイドツアーのある代表的なスポットです。
最近は国内でもあちこちでガイドツアーが盛んになってきました。
実際にどんなことをやっているかというのを少し紹介します。
森や山のツアーでは、山道を歩きながら、動植物を紹介したり、
展望を見たりしながら、ルートをめぐります。
父島の人気コースは千尋岩コースで、標高250mの断崖の上が目的地。
そこからは見えないのですが、
海から見ると、そこの断崖が、
ハートの形に見えることからハートロックともいわれています。
長い年月の地殻変動などによる断層と赤土の流出が作った、自然の妙です。
夜のナイトツアーでは、
小笠原で唯一固有哺乳類・オガサワラオオコウモリを探したり、
光るきのこ・グリーンペペを探したりしています。
グリーンペペは島名で、和名はヤコウタケといいます。
本州でもまれには出るようですが、小笠原と八丈島が有名です。
直径5mm-1㎝ほどのサイズですが、とても明るく光ります。
観光客が特に喜ぶのは星空です。
小笠原は絶海の孤島で、島の明かりも少ないので、
日本でもトップクラスの夜の暗さです。
そのため、天気がよく、月明かりがなければ満天の星空間違いなしです。
ここからは、小笠原の紹介をしましょう。
小笠原は全体の総称で、小笠原という島はありません。
自治体としては小笠原村です。主要な島には家族名がついています。
おおむね1700年代前半にその島名がつけられていたようです。
父島列島には父・兄・弟・孫、
母島列島には母・姉・妹・姪、
聟島列島には聟(婿)・嫁・媒(仲人)などです。
さらに、硫黄列島(硫黄・南硫黄・北硫黄)、沖ノ鳥島、南鳥島なども
小笠原村の行政区に含まれます。
日本の最南端・沖ノ鳥島と最東端・南鳥島は小笠原村なのです。
その中で戦後の有人島は2島のみで、父島と母島です。
父島・母島の緯度は、与論島と父島、沖縄本島の北部と母島が同じぐらいです。
父島は2150人程度、母島は460人程度が住んでいます。
硫黄島はかつて1000人以上の人が住んでいましたが、
現在は自衛隊の基地があるのみです。
父島は小笠原の玄関口として、定期船「おがさわら丸」が到着します。
母島は父島-母島を結ぶ定期船「ははじま丸」が運航しています。
本州からのアクセスは船便のみ。
東京・竹芝桟橋からおがさわら丸による24時間の船旅です。
「おがさわら丸」は父島で3泊停泊したのち、東京へ戻ります。
したがって、小笠原への旅は5泊6日の旅となります。
船は1隻のみですので、東京・父島それぞれの出港は6-7日に1回ペースです。
父・母を結ぶ「ははじま丸」はやや変則的ですが、
おおむね週4往復程度運航しています。
小笠原は世界自然遺産登録地。2011年6月に登録が決まりました。
自然遺産は日本で4番目の場所です。
クライテリアは「生態系」で、固有種の多さや種分化などが評価されました。
僕はガイドとして、参加者に遺産価値にあたる自然も紹介しています。
島の成り立ちはかなり古くて、
5000万年ほどの前の、プレートの沈む込みに端を発し、
海底噴火と、その後の隆起でできた島です。
その後ずっと絶海の孤島が続く、日本では数少ない海洋島です。
噴火といえば、近年、西之島や福徳岡ノ場の噴火がよく話題になりました。
西之島は父島から130kmほど西にあります。
噴火が激しいころは空振という、
断続的にブルブル震えるような、空気の振動が伝わってきていました。
正体がわかるまでは不気味でした。
福徳岡ノ場は南硫黄島付近で父島から300km近く離れています。
直接の噴火の影響はありません。
軽石が西のほうに流れて行って、南西諸島に被害をもたらしていますが、
まだ小笠原にはほとんどきていません。
今後、黒潮経由で、遠回りしてくるのかもしれません。
小笠原は海洋島ゆえ、この島にたどり着いた祖先種から、
独自の進化をとげた、多くの固有種があります。
島に生物がたどりつくには、
3つのW、すなわちWING(翼)、WAVE(波)、WIND(風)、
このどれかによります。
陸上移動するものや海水に弱いものはまずたどりつけません。
そういった制限の中で、維管束植物は100種類以上の固有種があります。
哺乳類・爬虫類はそれぞれ1種だけが固有種として生息しています。
哺乳類はオガサワラオオコウモリ、爬虫類はオガサワラトカゲです。
自然の歴史とは裏腹に、人の定住はかなり最近です。
江戸時代、日本人に発見されたころは無人島で、
巽無人島(たつみむにんじま)とよばれていました。
それゆえ、
固有種の和名には、小笠原を表すムニンがつくものがいくつもあります。
英語では少し転じてBONIN ISLANDS(ボニンアイランズ)となりました。
人の定住は
1830年にハワイから白人と現地の人とで移住してきたのが定住の始まりです。
日本の関与は、江戸時代も少しありましたが、
実質は1876年、明治政府によるものからです。日本人の移住もそれ以降です。
初期のころは、八丈島などの伊豆諸島からの移住者が多かったようです。
外国からの先住者は、それ以降、日本に帰化していきました。
ここで、小笠原ならではのものをいくつか紹介します。
まずは自然。自然遺産になったくらいで、いろいろあります。
動植物は固有種がたくさんです。
その固有種の多くには、
和名の頭にムニン・オガサワラ・シマなどがついています。
維管束植物は100種以上の固有種があるので、
山地の方に行けば、ごく普通に固有種の樹木が生えています。
石を投げれば固有種にあたるというくらいです。
地形も国内ではあまり見ない枕状溶岩があちこちに露出しています。
亀の甲羅のような模様です。
これは、海底火山の噴火で水中に出てきた溶岩が急冷されて、
表面の性質が変わり、積み重なっていったものです。
地質には、世界的にもレアな無人岩(ムニンガン)もあり、
そこには単斜エンスタタイトというこれまたレアな成分が含まれています。
海に目を向けると、何と言っても鯨類です。
小笠原の観光として主要な位置を占めています。
かつては捕鯨も行われていた小笠原です。
1980年代末にはホエールウォッチングが始まっています。
小笠原でよく見られる鯨類は
マッコウクジラ、ザトウクジラ、ハシナガイルカ、ミナミハンドウイルカの4種です。
ちなみにイルカ・クジラはサイズによる便宜的なもので、同じ鯨類です。
4種のうち、
ザトウクジラだけは回遊性のため、11月から5月が小笠原で見られる期間です。
このクジラはかなり島の近くに来るので、
山の展望台からもウォッチングができます。
イルカ2種のうち、ハシナガイルカは船上観察ですが、
ミナミハンドウイルカはスイム対象になっていて、
いわゆるドルフィンスイムができます。
小笠原は漁業も盛んです。
たて縄漁でメカジキやマグロ類などが多く水揚げされます。
ほかには底釣りのハマダイ(オナガダイ)やイセエビ類の水揚げもあります。
人口の少ない島ですので、大部分は本州に出荷されます。
1994年に天皇・皇后(現在の上皇・上皇后)が行幸啓された時の夕食のメニューでは、
魚類はハマダイ、レンコダイ(キダイ)、アオリイカなどが使われました。
現在でも、ホテルの夕食で同じメニューが供されています。
そういう海域ですので、
以前は、水産学部の「おしょろ丸」が実習で年に一度小笠原まで来ていたのですが、
近年は来なくなっていて(理由は知りません)、残念です。
戦跡もたくさん残っています。
太平洋戦争中、小笠原の兵力は40000人以上でした。
その中で、硫黄島が戦場になりました。
父島・母島などは空襲・艦砲射撃を受けましたが、上陸戦はありませんでした。
戦争末期、日本軍は潜むための穴を掘って洞窟陣地を多数作りました。
戦後、米軍占領が長く続き、洞窟陣地があったところも、
森林化して山中に埋没していき、いまだにそこに据えていた大砲が残っています。
もう国内ではそういうところはまずありません。
普通は戦後すぐに大砲は撤去されています。
次は食文化。代表的なものは島寿司とアオウミガメです。
島寿司は伊豆諸島や大東島に共通の文化が広がっています。
ネタを漬けにしたにぎり寿司です。
小笠原ではネタはカマスザワラで、薬味は洋がらしです。
もう1つは、アオウミガメ。
都の規則で135頭の捕獲が認められています。
普通、1頭当たり100㎏以上あります。
現在、国内でアオウミガメの捕獲は小笠原だけです。
代表的な食べ方は刺身と煮込みの2つ。
胸のあたりの肉を刺身にします。その他のあらゆる部位は煮込みにします。
やや味にクセがあるので、必ずしも美味とはいえませんが、
かつては貴重なたんぱく源であり、スタミナ源であったようです。
今は小笠原でしか食べられていないアオウミガメですが、
古くは遠洋航海する欧米などの船の食糧源ともなっていたくらいです。
いまでもフランス料理ではアオウミガメのスープがメニューにあります。
地酒は、サトウキビの開拓から始まった島なので、
ラム酒が作られています。
奄美では黒糖焼酎が作られていますが、ほかの地域では作れない制限があって、
小笠原や沖縄ではラム酒が作られています。
ホワイトラムで、ピリッとした飲み口です。
芸能文化で言えば、歴史も新しいので、
周辺の島とのかかわりで持ち込まれたオリジナルをアレンジしたものが伝えられています。
小笠原太鼓は八丈太鼓からの流れ。
南洋踊りは行進踊りのようなものがマリアナから伝わりアレンジされたもの。
古謡も日本からのものより、マリアナからのものが好んでうたわれています。
また、現在ではフラやスチールパンも盛んです。
学校行事にも、特徴のあるものがいくつかあります。
父島は保育園・小・中・高が1つずつあります。
父島の運動会は小・中・高連合運動会。これは国内的にもかなりレアです。
昼食後の応援合戦は高校生の独壇場。女子のチアと男子の応援団。
見ごたえがあります。
4月の入学式は同じ日に 小・中・高の順に時間差で行われます。
保護者や来賓は順にはしごする人も出てきます。さすがに卒業式はそれぞれ別な日です。
南の島ですので、海の行事もあります。
小・中は夏に遠泳大会があります。小は400ⅿ、中は1㎞です。
高校は、夏の体育がウィンドサーフィンです。
小・中の総合学習は
小笠原の自然・文化が学年ごとに設定され、まさに小笠原学です。
僕は長年、小4の総合「小笠原の植物」を指導しています。
6-7日に1回の船便だと、中・高の修学旅行も長旅で、計10泊ほどとなります。
旅先は中学が京都・奈良、高校は北海道などです。
通常の旅行の日程プラスして、
東京で学校や企業訪問、芸能鑑賞、ディズニーランド訪問などがあります。
こういった小笠原ならではのことは、
島の生活自体も、船便に合わせた独特のものがあります。
でも、意外と都会的(東京的)なところもあります。
地元登録の車は品川ナンバー(伊豆諸島もですが)。
しゃべる言葉も、もともと移住の島ですし、
返還(1968年)後の移住も多いので、ほぼ標準語です。
住宅も返還後のものばかりで、新しい感じがあります。
住んでいる人自体も、返還後の移住や異動のある公務員の比率がかなり高いです。
こういう島で29年住み、人生で一番長く住む地となりました。
そこで、故郷のように、そしてのどかに、暮らしています。
僕も来年で還暦です。
還暦後の人生はどうなるかは自分でもわかりません。
(昭和60年 林産学科卒)
参考
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