小笠原マルベリー

硫黄島・鎮魂の丘


 

 

概要

 

硫黄島中央部台地の南端にある

「鎮魂の丘」。

硫黄島「鎮魂の丘」 東京都福祉局 (tokyo.lg.jp)

硫黄島(いおうとう) (nihonshima.net)

写真 | 小笠原村公式サイト (vill.ogasawara.tokyo.jp)

 

ここには都が建立した「鎮魂」碑がある。

慰霊碑の正面には摺鉢山が遠望できる。

ロケーションデザインはすばらしい。

 

エントランスから坂を上り、

左に折れると少し先に鎮魂碑がある。

鎮魂碑までのルートの中央部には導水路がある。

これは碑に献水するとそこを流れる仕組み。

 

竣工は昭和58年(1983年)8月31日。

 

 

 

 

 

 

 

初訪問

 

 

初訪問は2007年。

 

村主催硫黄島訪島事業(2007年・再編集版)

 

2024年7月に再訪した。

 

 

 

 

 

現地の様子

 

 

エントランス

突き当りまで上ると、左前方に慰霊碑がある

 

慰霊碑方向

中央の溝は導水路

 

鎮魂碑

碑に献水すると、導水路を流れる仕組み

 

碑の先には摺鉢山

 

 

丘から擂鉢山遠望

 

由来文

 

 ----

 東京の南方、1250キロの洋上に硫黄島は浮ぶ。

東京都に属ずる。

明治20年(1887年)時の東京府知事、

無人の島に初めて足跡を印したが、

昭和19年より20年(1945年)に至り、

この島を舞台に日米両国は激しい死闘を演じた。

死守を誓った日本軍二万余、島民数十名、おおむね空しく、

上陸を決行した米軍の戦死者七千を加えて、

計三万が戦いに果て、島は巨大な墳墓と化した。

歌人釋迢空が

「最も苦しき戦いに最も苦しみ死にたる子ら」と嘆じたように、

水と糧に乏しい島の、

噴出する硫気とむせかえる地熱の壕を拠点とした苦しい戦いは、

ほとんど肉体の限界を超えていた。

 

  東京都知事鈴木俊一は、彼等の無韻の慟哭を心に聞き、

その慰撫鎮魂と明日への平和祈念のため、

この地に建碑のことを発願した。

建築家相田武文に設計を、詩人井上靖に碑銘の撰定を乞い、

ここに除幕の式典を執り行う。

ありし日の怨讐を超え、瞋恚を棄てて、

この島に戦った者の親、妻、子、またすべての同胞たち、

共に手を握り、盃を挙げ、

死者たちの無念の思いを無にせぬことを誓い集う。

不文の文士山本健吉、求められて蕪辞を連ね、

事の顛末を記す。

 

昭和58年9月9日』

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丘のすぐ下にある粟津壕

 

 

 

 

参考

 

 

硫黄島・南鳥島

 

小笠原・硫黄島関連図書

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    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

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