小笠原マルベリー

小笠原開拓碑、昭和天皇行幸地の1つ


 

小笠原開拓碑、昭和天皇行幸地の1つ

 

概要

 

扇浦にある、小笠原開拓碑(明治政府)です。

碑では「開拓小笠原島之碑」となっています。

詳細情報 : 東京都文化財情報データベース (tokyo.lg.jp)

 

ツアーで来るたび、

昭和天皇はここを行幸されたか気になっていました。

 

最近読み直した書籍で行幸されてたのが分かる写真を見つけました。

アボック社「寫眞帳 小笠原 発見から戦前まで」です。

記事は238ページです。

 

Aboc – アボック社 -寫眞帳 小笠原 発見から戦前まで

 

 

開拓碑の前に立って、碑文を読んでいるような画像です。

奥の「小笠原新治碑」もご覧になったでしょうね。

 

昭和天皇の小笠原行幸は7/30-8/1、

扇浦は、到着した7/30に行幸されました。

御召艦は軍艦・山城でした。

 

 

 

 

碑文訳

 

明治の中興、諸政を革新し、大いに辺境を開拓した。

明治6年(1873)、岩倉具視が小笠原の開拓を決議した。

内務卿大久保利通は外務・大蔵・海軍卿と協議し、

方針をたて、それが認められた。

そこで、外務省田辺太一を派遣し、視察させた。

戻ってから、現状を天皇に報告した。

明治9年(1876)、内務小花作助に命じ、

現地人に農、林、漁、牧畜をさせ、島を統治させた。

はじめは1593年(文禄2年)小笠原貞頼が発見し、

木標を建て、わが国の領地と表した。

よって、小笠原島と名づけられた。

延宝3年(1675)幕府は島谷市左衛門を派遣し、巡視させた。

享保12年(1727)貞頼の曾孫の貞任が、先祖の遺志を継ぐべく、

願い出て航海したが、漂流して帰らなかった。

そのうち、日本人も少し移住し、外人もまた移住者が出てきた。

文久元年(1861)水野忠徳を派遣し、住民を説き、法令を頒布し、

新ばりの碑を建て、経緯を記した。

しかし当時、日本は多事ゆえ、経営をうまくできなかった。

それで、今日の開拓を待つこととなった。

日本は四方を海に囲まれ、伊豆から南東方向、

北緯25-6度より、35-6度に至るまで島が連なっている。

小笠原もその1つである。

甲斐から伊豆への山脈が延々とここに(まで)伸びている。

すなわちここは日本の南門である。

役人をおいて行政が機能しないと、住民は安心して暮らせない。

ああ、住民が安心して働き暮らし、役人がその職務を勤めることは、

政府が辺境を開拓するという天皇の意向に沿うものである。

 

大久保利通 撰文ならびに篆額  日下部東作 書 

紀元2537年(明治10年1月・1877)廣群寉 刻

 

 

 

 

 

訪れるには?

扇浦海岸からすぐです。

小笠原神社のそばにあります。

 

マルベリーの歴史ツアーでは定番の場所です。

景観ツアーでも立ち寄ったりしています。

歴史・史跡ツアー

 

メールでのお問い合わせはこちら

メールでのお問い合わせ

マルベリーでは、山歩き(千尋岩)、森歩き、戦跡ツアー、スター&ナイトツアー、サンセット・ナイト、歴史ツアーなどを開催しております。

    は必須項目です。必ずご記入ください。

    お名前

    ふりがな

    メールアドレス

    ご住所


    お電話番号

    お問合せ内容

    個人情報の取り扱い

    個人情報保護方針に同意し、送信する

    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

    この著者の記事一覧

    コメントは受け付けていません。


    関連記事RELATED ARTICLE

    PAGE TOP