「世界自然遺産の島 小笠原諸島におけるエコツーリズムの展開」
<はじめに>
小笠原諸島は東京からはるかかなた1000㎞ほど南南東にある島々である。
一般島民が暮らす有人島は2島(父島・母島)のみ。
人口はわずか2500人ほど。
いまだ航空路のない島へのアクセスは定期船で25.5時間かかる。
小笠原への旅は5泊6日の行程で、うち島での滞在は3泊4日である。
そんな島で、2011年6月、世界自然遺産登録が決まった・・・・。
それから今年(2015年)6月で、登録後丸4年が経とうとしています。
僕はガイド事業者、島内団体の会長として、
遺産登録前後の動きを肌で感じつつ島で暮らしている。
ここでは遺産登録前、遺産登録後、さらに今後の展開へと、
エコツーリズムを主体とする観光とのからみで筆を進めていきたいと思う。
小笠原の有人島は2島(父島・母島)で、
2島それぞれで遺産前後の状況もやや違っている点がある。
僕は父島在住のため、母島のことについて多くを語ることができない。
そのことははじめにお断りしておきたい。
<小笠原について>
小笠原諸島は聟島列島・父島列島・母島列島が並ぶ小笠原群島、
北硫黄島・硫黄島・南硫黄島が並ぶ火山列島、
さらに西之島、沖ノ鳥島、南鳥島などから成り立っている。
行政機関は明治以降日本が統治するようになって、初期の政府直轄の期間以降、
東京都(はじめ東京府)に属する。
戦前は5つの村があったが、
戦後のアメリカからの返還以降は全域が小笠原村となった。
戦前はあちこちの島で人が暮らしていたが、
戦後は島民が暮らす有人島は父島、母島の2島である。
硫黄島、南鳥島の2島には自衛隊などが駐屯している。
定住の始まりは1830年、まだ200年にも満たない。
ハワイからの白人・現地人がわずかに移住して定住を始めた。
無国籍状態が長く続き、明治から日本の統治と開拓政策により、
日本人の移住が始まり、大規模な開拓が始まった。
戦前は農業・漁業が盛んな島であった。
しかし、1944年、戦争の激化により、
戦場となることを想定された小笠原は、住民の強制疎開を実施した。
戦後、すぐ米軍の占領下におかれたが、
米軍は外国系の住民100数十人の帰島しか許さなかった。
1968年の返還まで20数年、その状態が続いた。
20数年の期間、かつての大規模な開拓地はまた森林に戻っていった。
返還後も、大部分のかつての農地は手つかずのままとなり、
森林が大部分を占めるようになった。
自然が復活する時期でもあったのだ。
一方、
現在まで続いている外来種問題のいくつかは、この占領下に端を発している。
野生化しているノヤギはこの時代放たれている。
ノヤギの食害は在来植生に大きな影響を与えている。
爬虫類のグリーンアノールも海外から持ち込まれている。
グリーンアノールにより、父島・母島の昆虫層は壊滅的な打撃を受けた。
住民生活に影響を与えているイエシロアリもそうだ。
海外より仕入れた材木から父島に広がったイエシロアリは、
木造住宅に被害を与えている。
戦後の米軍占領下の時代は
プラス・マイナス両面で大きな影響を与えたことがわかるであろう。
<小笠原の観光>
返還後、復興の期間を経て、観光面では、海域の方が主体で進んでいた。
季節的には夏場が主体であった。観光客はあちこちのビーチに海水浴に出かけた。
事業者としてはダイビング、遊覧船、釣り船などがあり、観光客を楽しませた。
陸域はかろうじて島内観光ができた程度である。
25年ほど前から、ザトウクジラのホエールウォッチングが始まり、
春に来島者が増えるようになってきた。
その後、ドルフィンスイムもできるようになり、イルカ人気もかなり高まった。
さらに外洋性のマッコウクジラのウォッチングも、
主に海況のよい時期に実施されている。
これらイルカ・クジラは今に至って小笠原観光の牽引役である。
船で行くツアーでは南島観光もかなり人気である。
イルカ・クジラのツアーのほとんどが南島観光も盛り込んでいるので、
南島観光単独でのツアー催行はほとんどない。
シーカヤックも近年はかなり人気が出てきている。
父島沿岸域を自力で漕いでいく、スローなツアーである。
20年くらい前からは、少しずつであるが、陸域のガイドさんの需要も出てきた。
より活発になるのはさらにもう少したってからである。
陸域では森や山のガイドから始まり、
戦跡、歴史・文化などジャンルも広がってきている。
陸域のツアーは通年型ではあるが、山歩き人気から、内地の寒い時期の、
冬場に特に人気が高まっている。
父島最南端の千尋岩ルートは定番の人気コースとなっている。
さらに遺産登録以降は、暑さにかかわらず、
夏場も陸域ツアーで集客がかなり見込めるようになった。
近年は夜のツアーもかなりの人気である。
星空のツアーや夜行性・発光性のものを探すナイトツアーなどに
多くの事業者がかかわっている。
小笠原の観光は、依然としてイルカ・クジラ・南島が主ではあるが、
釣り、シーカヤック、島内観光、陸域ツアー、ナイトツアーなどのメニューも増え、
色々なことができるようになった。
エコツーリズムとしてもメニューは遜色ない。
<エコツーリズムの経緯>
小笠原村ではエコツーリズムを基軸とする観光を進めている。
エコツーリズムとは、自然・文化・歴史観光資源を対象に、
観光振興・地域振興・環境保全を3つの柱とした観光形態である。
地域の「ルール」・「ガイダンス」が本質的な要素となっている。
わかりやすく言うと、地域で利用や保全のルールを作った上で、
地域観光資源に対して
きちんと伝わる術である説明看板やガイドさんが必要ということである。
国内ですでにエコツーリズムとして認識されている地域は増えてきている。
ただ、ガイダンスに携わるガイドなどが生活も成り立つ地域とすれば、
屋久島、知床、小笠原などまだ数えるほどしかない。
小笠原は日本のエコツーリズムの発祥の地といわれることがある。
小笠原では1987年まで捕鯨の基地が母島にあった。
国際捕鯨委員会のモラトリアムを受け捕鯨が終了した。
その翌年1988年、同じ母島でホエールウォッチングが実施された。
さらにその翌年1989年から、事業化されたのだが、
ウォッチング方法について初めからある程度ルール化され実施されていた。
それゆえ、エコツーリズム発祥の地といわれるわけである。
それ以降も、各対象物のウォッチングが盛んになるにつれて、
民間事業者がまとまって自主ルールが作っていった。
一方、行政はエリアに対して、規制をかけ、利用者の制限をかけていった。
さらに、自然遺産登録での課題が保護担保措置の充実であったことから、
規制はさらに強いものとなっている。
エコツーリズムを推進する組織としては、村が事務局となり、
小笠原村エコツーリズム協議会が設置されている。
協議会ではルールやガイド制度について検討するルール・ガイド制度部会と
エコツーリズム全体構想を検討する全体構想部会の2部会が活動している。
<小笠原ホエールウォッチング協会について>
2014年度総会以降、僕はこの団体の会長となった。
この団体は鯨類の調査・研究を主な業務とする団体であり、
鯨類やエコツーリズムの調査・研究を通じて、観光に寄与することを目的として
設立されている。
つまり観光に役立つ調査・研究が主眼となっている。
小笠原のホエールウォッチングは、はじめ1988年に母島で実施された。
翌年事業化され、小笠原ホエールウォッチング発足した。
発足の年にホエールウォッチングの手引書が作成され、
事業化の初めからルール作りがなされていた。
そして、1992年には自主ルールが制定された。
ドルフィンスイム事業の普及とともに、
イルカへの影響も懸念されるようになってきた。
当協会がアドバイス役となり、2005年、
小笠原観光協会でドルフィンウォッチング・スイムの自主ルールが作成された。
当協会は調査・研究を通じて、
環境保全へのアドバイスや観光資源の価値を高めることに大きな役割を担っている。
もちろん小笠原村エコツーリズム協議会の参画団体にもなっている。
世界自然遺産登録までの課題
小笠原は自然遺産登録前の時点で、自然資源の価値は十分評価されていた。
課題として保護担保措置の拡充、外来種対策が求められていた。
保護担保措置の拡充のため取られた措置のうち2つを紹介する。
1つは自然公園法での国立公園地区の区分格上げで、
遺産区域のほとんどは特別保護地区、第1種特別地区、海域公園地区となっている。
もう1つは林野庁の保護林制度で、
小笠原全体の60%程度を占める国有林のほとんどが森林生態系保護地域に指定された。
この制度により、国有林内にある山道の利用がかなり制限されることとなった。
外来種対策は生態系保全アクションプランが作成され、対策が実施されている。
動植物ともに生態系への悪影響の強いものが対象種となっている。
生物系ではノヤギ、ノネコ、クマネズミ、グリーアノール(爬虫類)、
オオヒキガエル、ニューギニアヤリガタリクウズムシ(貝食生プラナリア類)など。
植物ではアカギ、モクマオウ、リュウキュウマツ、ギンネムなど。
それぞれの種は対策によって成果は出ていて、一部の島で根絶したものもあるが、
まだ完全に根絶したものはない。
なお生息地が限られていたウシガエル、ノブタについてはすでに根絶した。
世界自然遺産登録へ
2011年6月、フランス・パリでの会議で、世界自然遺産登録が決まった。
会議場には行政関係者が日本から駆けつけ登録決定を見守っていて、決定直後、
関係者から村役場にも連絡が入った。その後、島民も朗報を聞いて喜んだ。
自然遺産のクライテリア(判断基準)は、
地形・地質、景観、生物多様性、生態系の4つとなっている。
小笠原はそのうち、3つに適合すると考え、準備し、登録申請していた。
結論から言うと、登録が認められたのは「生態系」のみであった。
いずれにせよ、小笠原が世界自然遺産として認められたのには違いがなかった。
遺産区域も変更はなかった。
遺産登録された島は、聟島列島、父島列島、母島列島、火山列島(硫黄島は除く)、
西之島である。(父島・母島は一部集落地などを除く)
ほとんどが陸域であるが海域も一部含まれている。
海域はもともと海域公園として指定されていたところが、
おおむね遺産区域となっている。
父島で言えば、南島、兄島瀬戸、瓢箪島・人丸島周辺の海域公園地区である。
海域が盛り込まれた理由は、IUCNの現地調査などで、
陸と海の連続性を担保したほうがいいというアドバイスがあり、
海域公園地区が盛り込まれた。
遺産登録後の観光客数
小笠原の観光客は、定期船おがさわら丸によるものが主であるが、
不定期で旅行社がチャーターして大型クルーズ船(観光船)にっぽん丸や
ぱしふぃっくびぃなすなども寄港する。
表1では昭和60年度から平成25年度までの来島者推移を示す。
ただしこの表の定期船部分は島民・研究者・仕事を含んだ数字となっている。
(小笠原村観光協会データ)
定期船の来島者人数でいうと、小笠原の観光関連の団体・行政間では、
遺産前は乗船客25000人を目標として活動を続けていた。
しかしこのラインを超えることは難しかった。
遺産になった年は、東日本大震災があった年であったため、
小笠原の観光も2011年前半は影響が出ていたが、遺産登録決定が6月であったため、
それ以降は一気に伸びが始まった。
2011年度は30822人、2012年度は31910人、2013年度は28846人となっている。
2014年度はまだ年度の途中であるが
2013年度の85-90%程度になるであろうと予想されている。
観光船はチャーターできる大型船の運航予定の都合もあり、回数はかなり少ない。
しかし定期船同様、2011~2013年度とも高い数字となっている。
国内の遺産地域は、遺産直後に観光客数が大幅に伸びるのはどこも同じようだ。
ここ小笠原も傾向としては同じであり、遺産年度も含めた3年間は高水準を維持し、
今年度は陰りが出ている。
ピークは初年度(2011年度)から翌年にかけてであった。
遺産登録後の変化・問題
遺産登録後、観光客の入込数が増えたことで、何か変化や問題がおきたであろうか。
振り返ってみることにする。
細かく評価すれば多岐に渡ると思うが、目立っていたこととして、
団体旅行(旅行社の募集型ツアー)の増加、高齢者の増加、
人気自然観光ポイントの混雑、事業者の増加、観光関連インフラ不足などがある。
団体旅行の増加は顕著であった。
定期船到着時には旅行社の旗を持った添乗員が何人も並んでいた。
そういったツアーの来島者はほとんどが60代以上である。
山の人気とともに高齢者は増えつつあったが、さらに顕著となった。
高齢者が増えることで、小笠原に求められることも変わってきたように感じている。
人気自然観光ポイントのいくつかは混雑が目立つようになった。
小笠原の観光ポイントはそれほど広い場所がないため、
まとまった人数が行くと、かなり窮屈になる。
時間帯がばらける場所はそれほどでもないが、
時間帯がかち合うのは、混雑が目立った。
夕日鑑賞、ランチタイムなどである。
夕日鑑賞でいえば、山の上の夕日の展望台(ウェザーステーション)である。
そこは展望施設があるのでまだいいが、駐車場が狭いため、車が満杯で、
道路の方にまで何台もはみ出す始末である。
ランチタイムでいえば、山歩きに人気コースの千尋岩の上である。
そこはコースの目的地で、開けたところではあるが、
ふつうランチタイムはその上でとなる。
そのためピーク時には100人近い人が集まるときもあった。
事業者の増加は、遺産登録前から続いていて、遺産後特に顕著というわけではない。
しかし、ピーク人数を経て、来島者が落ち着いた今、
ややオーバー気味であるように感じている。
今後、少し淘汰が起きるかもしれない。
観光インフラ不足については、駐車場、トイレ、観光施設などで感じた。
多くの観光ポイント、浜辺の駐車場が駐車台数の少ないところが多く、
満杯状態のところを目にする機会が増えた。
トイレは集落エリアに関してはそれなりに整っている。
しかし、集落エリアを離れると、かなり少ないのが現状。
山地の方を回る道路(夜明道路)沿いにはもともとトイレがなかった。
その後、夜明山付近に阪急交通社さんからバイオトイレが寄贈されて、
緊急的な対応に役立っている。
山中にはいまだトイレはなく、現地で処理をする状態が続いている。
観光施設は
ビジターセンター、水産センター、亜熱帯農業センター、海洋センターなどがある。
いずれも展示物を見学する施設で、体験型の観光施設が少ないのが現状である。
少し論点がずれるが、消費税納税事業者と免税事業者の混在が、
納税事業者にとって、消費税を消費者に転嫁できない要因となっていることもある。
たとえば8000円のツアーがあったとしよう。
(小笠原ではチラシなどではみな消費税込みの総額表示している。)
免税ガイドの場合、そのまま8000円である。納税ガイドの場合、8640円となる。
そうすると、640円の価格差が出る。消費者にとっては大きな差である。
結局、小笠原の現状を見る限り、
消費税が8%になったときもそれをきちんと転嫁している業者はないように感じる。
これがさらに10%になったとしたら、さらに大きな影響がある。
新たな取り組み
遺産登録以降の取り組みとして、
小笠原村エコツーリズム協議会「陸域ガイド登録制度」の運用が2012年より始まった。
これは小笠原のガイドの一定の質を担保する制度として考えられた。
主に観光協会所属のガイドで、所定の基準を見たしたものが、申請し登録される。
僕もガイドとして初年度に登録を受けた。
登録は初年度・2年度目にまとまった登録があり、
以降の年度はわずかにとどまっている。
現在登録ガイドは父島・母島合わせて30名弱ほどである。
エコツーリズム全体構想の検討も終盤を迎えている。
この全体構想は「エコツーリズムス推進法」に基づくもので、
小笠原のエコツーリズム推進の枠組みを作り、国から認定を受けることとなる。
今後の展開
2014年度の定期船来島者数は、
前年度より10-15%は下がって25000人前後と予想される。
そうなると、いよいよ2015年度が正念場である。
遺産登録前に目標を立てていた25000人を、遺産登録後3年間は楽々超えていたが、
2014年度はそのライン上にまで下がってしまっている。
2015年度、このラインを維持できるかどうかである。
来島者増に結び付くような明るい材料はほとんどない中でも、
25000人というラインをなんとか維持しなければならない。
観光事業者が増えた中では、各業者の集客人数の低下とともに、
業者ごとの集客力の差も目だってきている。
25000人のラインを落とすことになると、廃業する事業者も出てくる恐れもある。
こういった状況の中でも、質の低下だけは起こさないように注意が必要である。
こうなると悪循環のらせんにはまってしまうからである。
新たなメニュー開発、外国人誘客対策、新規顧客発掘、リピーター作り、
「海域ガイド登録制度」などやることはたくさんある。
このあたりは各事業者が独自にできることもあれば、
村全体で合意形成しながら進めていく必要のあるものある。
たとえば、外国人誘客についていうと、現在、外国人は定期船の1%程度である。
伸びしろはかなり大きいはずである。
しかし、村の中では外国人誘客はまだ十分合意が取れている状況ではない。
トップダウンで一気に物事を進めるという風土がない中、
合意形成もなかなか進まず、新たなことへの取り組みは難しいところがある。
おわりに
2014年度以降、遺産人気というのも陰りが出て、来島者もまた減り始めている。
そうすると、集客のため、値引き・バーゲンに頼ろうとする動きが出てくるだろう。
しかし、この安売りは禁物なのである。
貴重な自然資源を売りにする小笠原で、薄利多売はありえない。
食べ物で言えば、量の取れない超高級素材なのであるから、
そのまま、刺身・生で食べていただくか、
味を損なわない程度の味付けをして食べていただくか、どちらかである。
刺身・生で食べていただくにしても、お皿に盛るまでに、
実は相当料理人の手が入っているはずである。
自然資源を味わうためにはそこはガイドの出番となる。
地元として、いつまでも大事な素材を守っていく使命がある、
そして、今まで以上に価値を高め、高付加価値の島としてありたい。
おのずと安売りはできないのである。
では何をやるべきか。
今後の展開で述べたように新たなメニュー開発、外国人誘客対策、新規顧客発掘、
リピーター作り、「海域ガイド登録制度」などが考えられる。
このあたりが鍵となるのではないだろうか。
ただまだ具体案がそれほどないので、真剣に考える時に来ている。
僕が会長である小笠原ホエールウォッチング協会では、
今後のエコツーリズムの質の担保に寄与していくことが大きな役割である。
以上
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