陸軍弾薬庫(清瀬弾薬本庫)・・整備・公開してほしい戦跡
目次
概要
父島集落には、
陸軍弾薬庫(清瀬弾薬本庫)が残る。
ただし、
残念ながら閉鎖され、公開されていない。
ハードルは高いが、
今後、整備・公開を期待する戦跡。
ある意味、宝の持ち腐れ。
国内でも
これほどのものはわずかしか残っていない。
陸軍弾薬庫は
奄美大島瀬戸内他にもわずかにあるよう。
奄美大島は整備・公開されている。
陸軍弾薬庫は、
1927年から着工、1943年頃には完成していたよう。
*写真は調査などで入ったときのもの。
弾薬庫の様子
現在、閉鎖されている3つの清瀬弾薬庫。
1号庫は独立、
3号庫と2号庫は横通路でつながっている。
(それぞれ外部扉もあります。)
いずれも外部扉からは通路があり、
その内部に外庫と内庫の二重構造となっている。
米軍占領下、
ポラリスミサイルの核弾頭が保管されていたとの情報もある。
図面 小笠原高校研究紀要13号 84ページ
3号庫内庫
内庫は幅5mほど、奥行25mほどあり、
銅板が貼られている
3号庫は清涼弾薬庫といわれている
内庫は2重扉となっている
内庫 二重扉(内側)
内庫 二重扉(外扉)
同扉 外側から
内庫の外壁
通路を経て外部扉
今後について
この2つの施設は
東京都(小笠原支庁、小笠原高校)管理下にある。
整備・公開の方向性を出すには、
村民や行政を動かし、まずは再調査が必要。
村、支庁、高校の長クラスの理解・賛同も必要。
村議にも動いていただく必要があるかもしれない。
その後、安全面での整備をし、ようやく公開となる。
公開できれば、
内部を戦跡の資料館という位置づけも可能かもしれない。
まずは整備・公開の可能性を探るところから。
小笠原は自然資源が豊かで、世界自然遺産ともなったぐらいで、
自然資源の保全・保護にはかなり力が入っている。
一方、文化資源の保全・保護についての動きは、
ややにぶいと感じています。
前途多難。
見るには
閉鎖されているので、内部は紹介できない。
外部の場所は景観や戦跡ツアーで紹介できる。
参考
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