小笠原マルベリー

「ペリー艦隊日本遠征記 上・下」(オフィス宮崎 編訳)


 

 

 

概要

 

2009年発行、

「ペリー艦隊日本遠征記 上・下」(オフィス宮崎 編訳)。

ペリー艦隊日本遠征記(上・下) – 株式会社 オフィス宮崎 

ペリー艦隊日本遠征記 (banraisha.co.jp)

 

ペリーとは、

言わずと知れたペリー提督のこと。

 

遠征記は、

1852/11/24ノーフォークを出るところから、

1855/4/24ニューヨーク到着まで。

 

ただし、

ペリー提督は、任務終了後、

郵便汽船で先に戻っている。

ペリーは1855/1/12ニューヨーク着。

 

本書は

上・下巻合わせて1100ページ近い分量。

序論だけでも150ページぐらいある。

かなり読みごたえがある。

 

日米の交渉がこと細かく書かれている。

 

全権を持つペリーに対し、

日本側は全権を持つ(将軍)は交渉にはかかわらない。

日本側はいつも決めごとを持ち帰って相談する。

決めたくないという本音もあっただろう。

そのためなかなか話はまとまらない。

 

ペリーは武力をちらつかせながらも、

巧みに交渉を続け、条約批准まで進めた。

 

最終的には、

1855/2/22に「日米和親条約」を批准交換した。

この部分は「補章」で書かれている。

 

遠征記は日米の交渉事が主となるが、

見聞きした風習や文化も述べられている。

図版も収録され、これも参考になる。

 

 

 

 

 

小笠原についての言及

 

「第10章 ボニン(小笠原)諸島の踏査」、

「第15章 三度目の琉球訪問」、

「第16章 中国海域のペリー艦隊」などで、

小笠原の訪問のことが述べられている。

 

 

 

 

「第10章 ボニン(小笠原)諸島の踏査」

 

サスケハナ号(サラトガも曳航)で提督が来航。

1853/6/14夜到着、6/18午前発で、

その間、探検調査を行った。

 

 

 

 

「第15章 三度目の琉球訪問」

 

ケリー中佐がプリマス号で小笠原訪問した。

 

その時には、

母島の占領を行った。

コフィン島という名称をつけ、掲示も建てた。

また父島では、

住民たちの自治政府組織を確認している。

 

「ピール島植民地」統治条項も記載されている。

ナサニエル・セボレーをはじめとする8名の署名がある。

 

 

 

 

 

「第16章 中国海域のペリー艦隊」

 

提督の訪問がイギリスの注意を引いた件が

書かれている。

 

ペリーは

土地購入は私的ものと説明している。

太平洋航路の避難・供給港としての必要性も訴えた。

 

 

 

 

 

 

参考:ペリーと小笠原

 

小笠原に来なくてはいけない理由、その47「ペリー提督が訪れた島だから」

 

「ペリー提督来航記念碑」(1853年来航)

 

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    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

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