稚内市大岬(宗谷岬)海軍望楼・・日本最北端の戦跡(’23/5月訪問)
目次
概要
’23/5月、
稚内市大岬(宗谷岬)海軍望楼を訪れた。
*望楼・・ぼうろう(見張り場・やぐら)
旧海軍望楼/稚内観光情報 最北のまち稚内 (city.wakkanai.hokkaido.jp)
大岬旧海軍望楼/稚内市 (city.wakkanai.hokkaido.jp)
すぐ眼下には
宗谷岬「日本最北端の地」碑がある。
<「日本最北端の地」碑>
日本最北端は弁天島であるが、
そこには戦跡はないようだ。
したがって、
この望楼が日本最北端の戦跡といってもいいだろう。
この望楼は1902年(明治35年)建設。
ロシアを警戒して、
宗谷海峡を見張るためのものであった。
日露戦争後に一旦役割を終えた。
しかし、その後も、無線通信基地となり、
太平洋戦争では対潜水艦監視基地となった。
2023年時点、
望楼の中は見学できない。(詳細不明)
外部からの見学となる。
旧海軍望楼 | 北海道Style (hokkaido-travel.com)
現地の様子
案内板
案内板
望楼 全景
望楼 海側
望楼 内陸側(入口側)
内部
内部
付近の慰霊碑
宗谷海域海軍戦没者慰霊碑 説明板
慰霊碑
平和の碑 説明板
碑
平和祈念碑
稚内市 宮沢賢治文学碑 | 北海道応援のブログ (ameblo.jp)
(改行位置は碑文とは異なる)
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昭和十六年八月宗谷海峡警儀のため
宗谷要塞重砲兵連隊が創設され、
クサンルに司令部、大岬に連隊本部及第一中隊、
西能登呂に第二中隊、野寒布の第三中隊、
声問に第四中隊が配置された。
我らは部隊要員として召集され、
昭和二十年敗戦の日まである者は妻子と別れ、
ある者は青春を空しくし、
寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ。
更に西能登呂要員は敗戦後も
シベリアに抑留の身となり
四年有余の辛苦の日夜を送った。
この間再び故国の土を踏むことなく
白玉楼中の人となった七名の僚友の霊に対し深く哀悼し、
魂鎮まらんことを念ずる。
戦後四十年余の歳月は
我らに望外の平和と繁栄をもたらしたが、
それは無事の同胞らの償いのない犠牲の上に
築かれたものであることを肝銘し
不戦平和の祈りと、願いをこめて、この碑を建立する。
昭和六十一年十月吉日
宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同
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参考
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