「柳生久丘之墓」(咸臨丸墓地内)
目次
概要
奥村・咸臨丸墓地内の後部左隅に建立、
「柳生久丘之墓」。
*久丘の読みは不明
島内で、この人物は全く無名である。
この墓以外では、
わずかに小笠原歴史関連書籍で出てくる程度。
墓は
「墓正面 柳生久丘之墓
墓左面 明治12年5月28日没」と刻まれる。
享年や出身地などは情報がなく不明。
小笠原諸島歴史日記には、
わずかに柳生氏の名前が出てくる。
明治11年(1878)11月5日の記事、
「定期船「社寮丸」入港す。
乗船者、勧農局所長・・・(途中省略)
農夫・・・(数人ののち)柳生久丘・・」とある。
勧農局/勧業局|アジ歴グロッサリー (jacar.go.jp)
勧農局の農夫として、募集に応じて、
来島したのだろうか。
明治12年(1879)5月28日の記事、
「勧農局出張所農夫の柳生久丘が病死する。
初めて火葬を行う。」とある。
内地から
来島からわずか半年ほどで亡くなったということだ。
墓はしっかりとしたものだ。
農夫の方がこれだけの墓を作ってもらえたのは、
何か理由があったのだろうか?
現地の様子
墓全景
正面 「柳生久丘之墓」
左側面 「明治12年5月28日没」
訪れるには
咸臨丸墓地内にある。
都道夜明道路に入ってすぐの場所。
まちからなら歩いても1.5㎞ほど。
各種ツアーでの立ち寄りは可能。
リクエストいただきたい。
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