奥村・咸臨丸墓地にある墓や碑
目次
概要
奥村の山裾にある咸臨丸墓地。
咸臨丸が来航したのは
1862年(文久元年12月)のことです。
外国奉行・水野忠徳を隊長とした一団が乗ってきました。
艦長は小野友五郎です。
来航の理由は
幕府(日本)が小笠原を領有するためです。
3か月ほどの滞在中には、彼らは精力的に活動していました。
咸臨丸は遭難することなく戻ったのですが、
乗組員が1名亡くなっています。
西川倍太郎という方です。
死因は精神疾患による自殺ということです。
(死に至る理由は不明です)
ここには、その方の墓だけでなく、
幕末から明治にかけてのいくつかの墓も一緒にあります。
さらに、
幕府建立の碑もあります。
由来がそれなりに分かっている墓や碑は
すでに個々に紹介しています。
それらをこの記事でまとめて紹介します。
現地の様子
都道沿いの案内板
同上 拡大
墓と碑
大雨が降ると、山からの水の通り道で、
水があふれてかなり流れる場所です。
そのため、
碑や墓はかさ上げして、かためてあります。
冥福碑
墓地群の中央部にあります
咸臨丸墓地 説明板
冥福碑説明板
墓や碑について
見るには?
都道夜明道路沿いにあり、自由に見学できます。
道路からもすぐです。
歴史ツアーでおもに見学します。
リクエストがあれば、
景観ツアーなど他のツアーでも見学はできます。
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