江戸幕府による「小笠原新治碑」
目次
概要
東京都指定有形文化財「小笠原新治碑」は
扇浦小笠原神社そばにあります。
(碑のタイトルは「小笠原嶋新は里の記」)
詳細情報 : 東京都文化財情報データベース (tokyo.lg.jp)
となりには同じく文化財の「小笠原開拓碑」があります。
こちらは明治政府によるもの。
詳細情報 : 東京都文化財情報データベース (tokyo.lg.jp)
(左奥が新治碑、右手前が小笠原開拓碑)
小笠原新治碑は開拓の意義を説いたもので、
幕末に開拓に入った幕府によるものです。
碑文は大和言葉で変体仮名で書かれ、
現代人には読むのは困難です。
(字が薄れて読みづらいのもあります)
碑は本文によると、
文久元年12月初めに、黒川春村が承り、書いて、
石工が急いで刻(きざ)んだとされます。
同時期に咸臨丸は内地から出港しているので、
間に合ったかどうか疑問です。
ですので、次の朝陽丸で運ばれたと考えられます。
朝陽丸は文久2年3月中頃着なので、
建立はそれ以降のようです。
この碑は、はじめに設置したところから、
後年、現在地に移設されたと考えます。
碑文訳
「小笠原嶋新は里の記」(小笠原島新治の記)
伊豆の国の八丈島の南、
北緯27度、江戸から東に4度27分に、大小のたくさんの島があり、
徳川家康統治のころの1593年(文禄2年)、小笠原貞頼が許可を得て、
渡海してから、領地とするよう、小笠原島という名を賜った。
しかし、荒波に妨げられてか、
いつしか渡航することもなくなっていたが、
1728年(享保13年)貞頼の子孫、貞任が、申し出て渡航した。
そのころは幕府も多忙で、はっきりした方針も打ち出さずに、
渡航は止めになった。
そもそもこんな離島だが、元より外国領でなく、
いたずらにそのままにしておいたのでは、
荒波を航海する船の頼りともならないので、
今回は何とかしてでも開拓せよと決まり、
水野忠徳(外国奉行)、服部帰一(むねかず・大目付)に開拓を任せた。
そのような経緯のもと、命令を受けた人々は速やかに準備を整えて、
直ちに出航しようとしている。
そこで、この事例を小笠原(沖津根島)において、
石に刻んで永久に残そうと決めた旨を、
1861年(文久元年)12月はじめに承って、黒川春村が誌す。
江戸谷中石工 廣群寉 6日6夜刻之
*「寉」は現在の「鶴」と同
現地の様子
説明板
碑と説明板
碑
訪れるには
扇浦海岸からすぐです。
小笠原神社に上る道の途中・右手にあります。
歴史ツアーでは定番の場所です。
景観ツアーでも訪れることがあります。
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