小笠原に来なくてはいけない理由、その47「ペリー提督が訪れた島だから」
目次
概要
アメリカのペリー提督は日本に遠征していますが、
上陸した場所は限られています。
Spirit03.pdf (anniv-ogasawara.gr.jp)(1853年の項参照)
確実なのは、
那覇、父島、久里浜、横浜、下田、函館などです。
当時、那覇はまだ琉球国、
父島は無国籍状態でした。
(小笠原が正式に日本領土になるのは1876年)
父島には、1853年6月14日上陸、
4日間実踏調査し、6月18日に島を発っています。
このころの小笠原は無国籍状態。
中心的な人物はナサニエル・セーボレーでした。
こんな小さな島にペリー提督が来島するなんて
ふつうはありえません。
太平洋航路の中継基地としての価値を
見出していたのですね。
小笠原ならではの1つです!!
ペリー一行の活動
・島内調査
・父島で石炭貯蔵用地購入
・米海軍管理下での植民地政府設立向けた指導
・母島の調査、
アメリカ領有宣言をした銘板の写しを設置
など。
島に残るもの
個人的な所有をのぞき、
島には足跡はほぼ何も残っていません。
「ペリー提督来航記念碑」がまちなかにあります。
記念碑の説明には
「西暦1853年6月14日
米国東インド艦隊司令長官・ペリー提督は サスケハナ号に搭乗し、
サプライ号(注:実際にはサラトガ号)を従え父島二見港に入港した。
来航の主目的は、小笠原を太平洋横断航路の中継基地とすることで、
そのために必要な用地を購入したほか、
「ピール島(父島)植民地政府」を樹立した。
これは、提督が日本開港を求めて浦賀沖に姿を現す約1月前のことである。
提督は、小笠原諸島の第一発見者は日本人であると指摘しており、
このことが後に小笠原諸島が日本領土として定められる要因になった。
本記念碑は、
ペリー提督の来航と提督の生誕地米国ロードアイランド州ニューポート市との
友好を記念して建立したものである。
平成八年五月(1996年) 小笠原村」
参考「小笠原に来なくてはいけない理由」
小笠原ならではのこと、ナンバー1、オンリー1のことを集めてみました。
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