小笠原マルベリー

「小笠原兵団の最後」(小笠原戦友会編)


 

 

概要

 

1969年発行、

「小笠原兵団の最後」(小笠原戦友会編)。

(発行所・原書房、

 サイトには記載なし・絶版であろう)

原書房 (harashobo.co.jp)

 

編集代表者は堀江芳孝氏。

百九師団父島派遣司令部少佐であった人物。

(硫黄島陥落以降は百九師団司令部)

本文ではHとして登場する。

父島には

1944/7月から終戦以降の処理まで赴任していた。

硫黄島の地上戦は経験はしていない。

 

堀江氏の小笠原に着任(1944/7月)以降の様子が

おもに書かれている。

 

各島で生きのびた方々の証言も多数記載。

 

戦犯の真相とは

捕虜の虐待によるものである。

おぞましい事件であった。

小笠原事件 – Wikipedia

 

 

 

 

 

目次

 

まえがき

全般の情勢

 

1.硫黄島

2.父島(兄、弟、聟島含む)

3.母島

4.終戦

5.戦犯の真相

6.あれから25年

7、十六名の戦友徹宵語る

  *徹宵・・てっしょう

 

小笠原の人柱

あとがき

 

 

 

 

硫黄島の戦死者

 

硫黄島での戦死者は20129名。

 

その内訳は、

敵弾での戦死  30%

60% 自殺

(注射などで楽してもらったものも含む)

10% 他殺

(捕虜になるなら殺す)

1部 事故死(暴発、訓練死)

ということだ

(53ページ記載)

 

激戦の中でも、

壕内で一万ぐらいの兵がまだ生きていたとのこと。

 

捕虜になるという選択肢があれば、

戦死者はもっともっと少なかったはず。

やるせない。

 

 

 

 

参考

 

「硫黄島」(石原俊)

 

「硫黄島クロニクル(年代記)」(夏井坂聡子)

 

小笠原諸島返還50周年記念誌(2018年6月)

 

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    この記事を書いた人

    吉井 信秋

    大阪市旭区生まれ。 茨城県立水戸一高で硬式野球部所属。 北海道大学農学部林産学科(現・森林科学科)卒業。 某企業に就職、栃木県鹿沼市の研究所に配属される。 数年後、異動により東京勤務。さらに数年後、依願退職。 その後、小笠原・父島に移住。 島でいくつかの仕事を経験後、2000年独立開業。 小笠原で山歩き、森歩き、戦跡などの陸域専門ガイドを勤める。

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